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2012年1月10日号 広報ふじさわ…市民の広場  〔 1 / 1 page 〕

藤沢と龍のはなし

「江嶋縁起」に描かれている五頭龍と天女(岩本楼所蔵)
「江嶋縁起」に描かれている五頭龍と天女(岩本楼所蔵)

 藤沢には、龍に関するさまざまな伝説が残っています。

 江の島周辺をはじめ、市内の寺社に保存されている龍にまつわる故事・宝物からは、龍が古来より大事にされてきた地域文化を伺い知ることができます。

 2012年は、「龍」をキーワードに市内を訪ねてみませんか。

天女と五頭龍の伝説〜「江の島縁起」より

 昔、鎌倉の深沢村に大きな湖があり、「五頭龍(ごずりゅう)」と呼ばれる五つの頭を持つ龍が住んでいました。五頭龍は子どもをさらったり、田畑を荒らしたり、悪行を重ねてばかり。近隣の村人たちは困り果てていました。

 そんなある日、嵐とともに大地震が起き、恐ろしい天変地異が10日間も続きました。

 災厄が収まると、雲の上に天女が現れました。そして空からは風神・雷神などが石を降らし、海からは砂が吹き出て、ひとつの小さな島ができました。

 この小さな島が江の島、天女が弁財天だと言われています。

 やがて、天女は江の島へ降り立ちます。この様子をじっと見ていた五頭龍は、美しい天女に一目惚れ。江の島へやってきて「妻になってください」とお願いしましたが、天女は「人々を苦しめている者とは一緒になれません」と断り、洞窟の奥深くへと入ってしまいました。

 天女のことを諦めきれない五頭龍は、再び江の島を訪れ、「これからは心を入れ替え、村人のために尽くします」と誓いました。

 一生懸命に働いた五頭龍は、自らの体を山に変え、いつまでも村を守ることにしました。これが片瀬にある竜口山であると言われています。

〈現在の話〉

 この伝説は、岩本院(現・岩本楼)に伝わる「江の島縁起絵巻」という絵巻に記されています。平安時代に生まれ、鎌倉時代に絵巻が作られたとされる物語で、江島神社の由来や弁財天の霊験についてまとめられています。

 また鎌倉の龍口明神社には木彫りの五頭龍がご神体として納められており、60年に一度の「巳年式年大祭」で江の島まで運び、五頭龍と天女を会わせる儀式が行われています。

龍口明神社に奉納されている五頭龍の絵馬
龍口明神社に奉納されている五頭龍の絵馬

雨乞い祈願の「龍の骨」〜宗賢院

 宗賢院(大庭)には、「大龍骨」と呼ばれる骨があります。

 古来より「日照り続きの時、龍の骨を小川へ持ち出して水を注ぐと雨が降る」という言い伝えがありました。同院に伝わる文書には、明治の初期頃から大正時代にかけて、夏の日照りの時期、この「大龍骨」を使って引地川で雨乞い祈願の儀式が行われていたことが記されています。近隣の村からも、雨乞い祈願のために大龍骨を借りに来たそうです。

 「大龍骨」は、高さ27cm、長さ62cmほど。現在では鯨類の頭骨と推定されていますが、地域を守ってきた宝物として大切に保存されています。

大切に保存されている「大龍骨」
大切に保存されている「大龍骨」



1面「弁財天と時政」より

北条氏と龍信仰〜ミツウロコ紋の由来

 北条政子の父・北条時政は、弁財天を深く信仰していました。時政が江の島弁財天にこもって子孫の繁栄を祈っていると、満願の夜の明け方、赤い袴を身につけた美しい女房の姿をした龍が現れ、「あなたの子孫は栄華を誇ることになる。ただし非道な行いがあれば家はたちまち滅亡するので、よくよく気をつけなさい」と告げました。

 目が覚めると、時政の手のひらには3枚の龍のウロコが残されていたそうです。

 そのウロコを大事に持ち帰った時政は、北条家の家紋を「三つ鱗(ミツウロコ)」としました。

〈現在の話〉

 この話は、「吾妻鏡」に出てくるエピソードがもとになっています。

 江の島の島内では、現在でも寺社や公共の建築物などに、ミツウロコ紋のデザインが数多く使われています。

灯籠や石段の手すりにミツウロコの紋が使われています(いずれも江の島にて撮影) 灯籠や石段の手すりにミツウロコの紋が使われています(いずれも江の島にて撮影)
灯籠や石段の手すりにミツウロコの紋が使われています(いずれも江の島にて撮影)